日本共産党新座市議会議員団
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にいざ民報

2004.5.16  No.1064
日本共産党新座市委員会
国保税値上げはやめよ
繰入金を増額し、値上げ中止を
 2004年度施政方針で須田市長は介護保険第二号被保険者(国保加入者のうち40歳〜64歳の人)が納める国保税介護分を6月議会で値上げする考えを示しました。値上げ率などは検討中ですが、5月20日の国民健康保険運営協議会に値上げ案が提案される予定です。

 介護保険制度では、総事業費の50%を国、県、市が負担し、あとの50%を第一号被保険者(65歳以上)が18%、第二号被保険者(40歳〜64歳の人)が32%を負担しています。国は、介護保険の利用が進んで総事業費が増えたため、国保税介護分は2万8915円(平成12年度)から、4万1600円(平成16年度)と増額を見込んでいます。

 市はこの間国保税介護分を平成12年度から据え置いてきたことは評価できます。

 しかし、もともと国保は、退職やリストラなど生活の厳しい加入者が増え、経済状況を反映して税収も徴収率も伸びていません。医療費だけでなく、介護分も負担するようになった国保会計を維持していくには一般会計からの繰入金増額が欠かせませんが、市は平成10年度から当初5億円という繰入額を変えていません。

 新座市の繰入額は昨年度決算では一人当たり9291円で県内41市中25位。近隣の和光市17461円、朝霞市15087円、志木市10306円と比べても少ない額です。

 今回、介護分の増額に伴い、繰入れを増やして国保税値上げを回避すべきではないでしょうか。

 昨年末、日本共産党が実施した『市民アンケート』でも市政に望むこととして「高すぎる国保税の引き下げ」を求める回答が一番多く寄せられています。徴収率も少しずつ下がる中で、保険税を値上げしてもさらに未納者が増えるだげではないでしょうか。
不断の努力で憲法を守ろう
埼玉母親大会に参加して
 初夏を思わせる4月25日、第49回埼玉母親大会が春日部市民文化会館で行われました。1200人が参加した午前中の全体会に引き続き、午後からは11の分科会があり、私は「国際連帯と平和を考える分科会」に参加しました。自衛隊のイラク派兵や民間人の人質自己責任論でゆれる世相を反映してか、会場は百人もの参加者でぎっしり。

 講師の秋場稔男さん(日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)の「平和をめざす世界の大きな流れ、非同盟運動」のお話に、21世紀こそ平和を期待できる動きがあることを知りました。

 また特別発言したシンガポールのジャーナリスト符祝彗さん「アジアから見た日本の海外派兵」では、59年前の日本のシンガポール侵略に逆戻りしたと痛烈に批判し、いま第9条を中心に改憲論が進む中で日本の若者は自国の侵略の歴史を知らないと憤嘆しました。

 会場からも活発な菱言が相次ぎ、歴史を教えるのは「母親」の責任であり、不断の努力で憲法を守ろうと確認しあいました。

 新座母親大会も今年第30回を迎えます。10月3日に予定し、早くも記念講演には池田香代子さん(ドイツ文学翻訳家、「世界がもし100人の村だったら」訳者)が決定しています。

(投稿・新座母親連絡会・竹森絹子)
「子どもを叱りすぎているような気がする」(39%)
市民による「子育てネット」さらに拡大を
 新座市では全国に先駆けて、素晴らしい子育て支援計画が策定されました。

 『新座市次世代育成支援行動計画』の冊子ができあがり、ホームページや公民館等でも見ることができます。

 その中で、「子育てに関しての悩み」という質間に対して、就学前児童の保護者は1「子どもを叱り過ぎているような気がすること」2「仕事や自分のやりたい事が十分でぎない」3「子どもの教育に関すること」と約4割が回答しています。

 就学児童の場合は1「子どもの教育に関すること」2「友達づきあい(いじめ等)」3「子どもを叱り過ぎているような気がする」等となっています。「新座市子育て支援に関するニーズ調査」(表参照)

 新座市は6歳未満の児童を持つ家庭の89%が核家族で、三世代世帯の割合は埼玉、全国値より低くなっています。『支援計画』では悩みを気軽に相談したり子育てを交流できる場づくりや、子育て支援ボランティア育成に積極的に取り組み「市民による子育てネットワークをさらに拡大していく」としています。

 新座市は女性が一生の間に生む子どもの数(特殊合計出生率)が埼玉県、全国平均より一貫して低くなっています。全国に誇れる『子育て支援行動計画』を生かし、安心して子どもを生み育てられるまちづくりを共に進めていきましょう。
子育て支援に関するニーズ調査
母なる野火止用水
 江戸八百八町、60万人の飲み水として、多摩川の羽村から江戸に玉川上水が承応四年(1655)に水道の水として引かれました。

 上水総奉行だった老中松平信綱は玉川上水の三分の分水権を得て、野火止の領地に水を引くことになりました。

 分水口小平から西堀の分岐点まで引き、野火止の地に本流、平林寺堀、陣屋堀、菅沢堀と流れ、川越街道の両側を流れていました。

 野火止用水は農家の庭先きを流れ、農民はこの水で産湯を浴し、この水を飲み、飯をたき、風呂を沸かし、まさに母なる水、命の水、そして生活の水でした。

 野火止の農民はこの水のおかげで野火止の荒野を開拓し、新田畑を作っていきました。用水の水は畑の間を縫い、畑地にしみ込み、大地をうるおしてきました。
 むぎ、おかぼ、さつまいもの三作農業が盛んになりました。この水は引又(志木)の町の中を流れて「いろは桶」で新河岸川を渡り宗岡の田んぼに流れていました。

(M・K)
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