日本共産党新座市議会議員団
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にいざ民報

2004.8.29  No.1078
日本共産党新座市委員会
住民のアイデアでまちづくり
住民を信頼し行政情報もっと公開を − 日本母親大会にて
 第50回日本母親大会が開催され二日間で延2万人が参加しました。私は草加市の独協大学で開かれたシンポジューム『大好きなこの町で暮らしたい』に参加しました。

 パネラーは人口7600人で自立の道を選んだ長野県原村の清水村長、住民無視の合併を進める町長をリコールした滋賀県目野町の西川さん、住民と協同のまちづくりを進める草加市の飯島まちづくり課長など多彩なメンバーでした。

 私は地域経済の実践を聞きたかったのですが、全国集会なので合併問題での質疑が多く「合併してもしなくても地方財政は苦しい。同じ苦しむのなら住民の顔の見える村で」と自立を選択した原村村長の気骨あるまちづくりに質間が集中しました。

 原村では地区代表や希望者を入れた『百人委員会』と言うユニークな組織で子育てや美化、休耕田にドジョウを呼ぴ戻すドジョウプロジェクトなど住民のアイデアを生かすことで、住民の郷土愛や結束力を高めています。「オラの意見が通り行政の言い分も理解できる」という関係の大切さを強調されました。

 草加市では地区担当職員という職員が市民とともに『まちづくり協議会』を各地で立ち上げ、危険個所や保存したい場所、望ましい景観や欲しい施設などを出し合ってまちづくりのプランを作成していました。住民参加、住民とパートナーシップのまちづくりとは、住民をもっと信頼し、行政が掴んでいる情報を公開していくことから始まるのではと感じました。

 これからは、どの自治体も国の補助金カット等で大変な苦境に陥ります。原村の村長は「財政が硬直化していると言われるのを行政は嫌うが投資的経費を増やし借金で事業をしてきたことが今日日本中の自治体の借金漬けを招いた。発想を変えて建設事業はスローダウンして景気回復を待つ。しかし未来を担う子ども教育や高齢者の予算は減らさない」と語ったことが印象に残りました

(記・工藤市議)
被爆60年の来年を「核の恐怖から人類解放の国際行動の年」に
原水爆禁止世界大会に参加して
 8月4日から6日まで「原水爆禁止世界大会」に新座市から私と佐藤道子さん(新婦人)、草間孝さん(土建組合)の三人で参加しました。

 開会式には国内外から7800名が参加。びっくりしたことはエジプト、マレーシア、メキシコの政府代表が参加し、「来年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向け外交活動に力を集中しよう」「核兵器廃絶で最も重要なのは各国政府の政治的意思だ」「市民の力で政府の態度を変えさせることができる」「今年の国連総会に新アジェンダ連合が核兵器廃絶決議を提出する」等はっきりと発言し国として取り組む姿勢を示していることに感動しました。

 バングラデッシュ、ラオス、ニュージーランド等の元首のメッセージ紹介など地球的規模での平和の取り組みに日本の運動への信頼と期待、また責任をヒシヒシと感じました。

 広島の秋葉市長が特別発言で、アメリカの小型核兵器の研究など力の支配を批判し、「被爆者の告発が核戦争を防いできた。2020年を核兵器廃絶の目標とした行動プログラムが採択されるよう広島市としてブロジェクトを組む。来年5月に平和市長会として百人を越える市長で国連に行きたい」と呼びかけました。

 二日目は13の分科会に分かれて討議となり、私は「軍事費を削って暮らしと平和を守ろう」の分科会に参加。沖縄での米軍機墜落事故と同様、横浜の林和枝さんの事故の非人間的扱いに対する怒り。岩手からは「農業は減反がなくても今の農機具がだめになったらもう農業をやめざるをえない」と告発。予算の使い道を変える各分野での闘いなくして何も守れないと分かりました。

 三日目は全体会で「広島からの呼びかけ」と「被爆者との連帯をさらに強めよう」との特別決議が採択され、アメリカのアリス・シュレータさんの「平和市長会議の行動に皆さんの住む町の首長に参加するよう呼びかけてください。『今 核兵器の廃絶を』署名を国連の玄関に積み上げて下さい」の呼ぴかけがジーンと胸にきました。新座でも6・9運動を再開し来年の世界大会は多くの参加者でと強く思って帰路につきました。

(記・小鹿市議)
仕事確保と地域経済の活性化を
埼玉土新座支部が市長に要請
 埼玉土新座支部はさる8月12日市長に住宅デーでの売上金を寄付した後、次の4項目の要請書を提出して懇談しました。

 要請項目は1小規模工事登録制度の拡充を、2住宅リフォーム制度の創設を、3建設業退職金共済制度の適用促進を、4建設労働者の適正な労働条件と賃金をの4つです。

 「長引く不況は地元で働く建設職人を直撃し、賃金の低下はもとより、仕事の大幅縮小で生活が急激に圧迫されている」として、組合員の生活実態や、公共事業の現場調査を元に制度の新設や充実を要望しました。交渉には朝賀議員が同席しました。
原爆のむごさ伝えよう
朝霞四市革新懇が「映画と講演の集い」
 「朝霞、志木、新座、和光四市の革新懇談会」は8月21日朝霞市内で「映画と講演の集い」を開き、約60名の市民が参加しました。

 乙羽信子主演の「原爆の子」は1952年に撮影されたそうです。広島の幼稚園の先生が教え子3人の家を訪ねる物語で、子どもの父親が原爆で亡くなったり、両親は既に亡くなり、女の子も被爆で床に伏せて命が危ない状態だったりと、原爆による悲惨な現実が描かれ、改めて原爆のむごさと影響を教えられました。上映のあと、被爆者でおられる和光市の副島健義さんの「ヒロシマでの被爆体験」の講演を聞きました。

 被爆後59年過ぎても核実験の影響などで被爆者は増えています。力を合わせて地球上から核兵器をなくしていこうではありませんか。
大和田の普光明寺
郷土・にいざNo・7
 この寺は福寿山という号の真言宗の寺で、大同元年(806)律宗比丘開山と伝えられています。

 『新編武蔵風土記稿』には、「弘法大師がまだ高野山を開山前であるし、真言宗では寺の開基を大同、弘仁(810)年間としばしぱ言うので、この年号を記したのではないか」と書いています。

 この寺には暦応元年(1338)の古い仏像があり、南北朝時代の寺と見られています。中興開山は承慶和尚で元禄元年に亡くなっています。元禄以前は小さな寺でしたが、その後再築された山門はすばらしく、「福寿山」の額が掲げてあります。

 寺の東側には三百石あまりの武士・柴山正負の屋敷があり、天正十九年(1571)に陣屋を営み、寺を守っていました。この頃は秀吉の時代で、家康の統治になると川越街道の伝馬係留をやりやがて千石取りになったといわれます。

 元亀元年(1570)の姉川の合戦で討死した芝山彦丁郎政勝は正負の子で柴山親子の墓があります。

 このように大和田は中世の時代からの町であることがわかります。
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