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新潟中越地震から一ヶ月がたとうとしています。救援ボランティアに行った方々から現地でなければ分からないホットな手記が寄せられましたので紹介します。 |
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欲しいのは現金と人手 |
・・・・・役場の倉庫に山積みの救援物資 |
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(その1)
私の実家は六日町で85歳の母と姉が暮らしています。地震当日は電話が通じなくて心配しましたが午後7時過ぎに姉から電話がありホットしました。11月13、14日4人の仲間と日本共産党のボランティアに参加しました。母が避難所暮らしでもしていたら他人事ではないと思ったからです。
私のワゴン車にりんご、カップラーメン、衣類、紙オムツなどを満載して、指示された川口町に向かいました。道路は膏薬を張ったように復旧していましたが、山は至る所で地肌がむき出しになっていました。震源地に近いところは家がバタバタと倒れている惨状です。傾いた家から飛ぴ出した方は「山がゴーと鳴った。田畑が波打っていた」と地震の恐ろしさを語っていました。
(その2)
ボランティアの活動は被災者宅を訪ね「何かお困りのことはありませんか」と声をかけて周り、車に積んだ物資を届け、出された要求に応えることです。物資はあっという間になくなり感謝されました。
「こうして来てくれるのは自衛隊と共産党だけだ」「選挙の時はいろいろな党が来るが今回は稚も来ない。来たのは共産党だけだ」自衛隊は迷彩服を着て食事を運んでいます。私たちは胸に「日本共産党ボランティア」のワッペンを付けて活動しました。長靴、卓上コンロがほしいと言われ、長靴は買いそろえ、ガスボンベを六日町役場の倉庫にもらいに行ったら全国からの物資が山のようにありました。届ける人がいない、欲しい人に物が届かない、行政が適切に機能していないのです。
(その3)
私は阪神淡路の震災時にも一週間ボランティアに参加しました。日本共産党のポランティアはこの時も活躍しました。新潟でも組織力とノウハウを発揮して自治体とも連携して救援活動を展開しています。
現地は全国屈指の豪雪地帯です。一冬に3回から5回くらい屋根の雪下ろしをしなけれぱなりません。窓には雪囲いの備えをするのです。根雪になったら4ヶ月は屋外での仕事はできなくなります。例年でも冬に備える時期になっているのに行政の支援策は決まっていません。被災者は途方に暮れでいます。
現地で一番必要なのはお金と人手です。「人に優しい政治を」「自衛隊はイラクでなく被災地支援を」は国民の声ではと強く感じて帰路につきました。
(高橋年男・新座民商) |
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震災の傷跡に初雪近し |
・・・・・「支援物資お届け隊」の3日間 |
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新潟中越地方は私が生まれ育った故郷。今の実家は日本海沿いへ転居しているものの、40年以上昔の思い出がいっぱいあるところです。長引く避難生活の報道を見るにつけ、15日〜17日まで長岡市にある日本共産党全国救援センターに行こうと思いたちました。
リサイクルショップや新潟労連を貸しきった救援本部。夜7時からは片付け隊、ご用聞き隊、トン汁隊などの活動報告、アンケートからの要望、改善点の提案などが出され参加者が活発に交流しました。
翌日は雨。全体打ち合わせの後、雨合羽を着て八時半には出発です。私は支援物資届け隊に入り、埼玉からの参加者を中心に10名ほどで3台のワゴン車に物資を積んで小千谷市へ。道路は所々工事中です。町会長さんにお願いしてガレージを借り支援物資を広げます。組を作りマイクで呼ぴかけたり一軒ずつ要望を聞いたり・・・
家屋が全壊して瓦が道路の真ん中まで散らばっている家があり、道路脇にテントを張っている避難所がありました。「校庭から立ち退きを言われた」とのこと。
一夜明け、長岡市の住宅訪問。被災者が受けられる支援項目のリーフを渡しながら廻ると「避難所でお世話になりました。お借りした毛布をお返しします」という方も。
帰りのバスで紅葉と被害の痕を見ながら、雪国で育った者の寒さの実感がわいてきました。これから霙(みぞれ)に続き初雪も近い。暖かい援助の手がまだまだ必要です。
(藤井・片山) |