日本共産党新座市議会議員団
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にいざ民報

2007.8.26  No.1229
日本共産党新座市委員会
女性知事で人に優しい県政を
 26日投票の県知事選で民主県政の会・日本共産党推薦の女性知事候補は、参院議員24年の磨きぬかれた弁舌で「人と自然に優しい埼玉を」と、猛暑の中訴えています。

税金のムダ遣いやめる

 女性候補は「現知事は子どもとお年寄り、障がい者など一番弱いところに打撃を与えている」と批判。県立高校の統廃合、高齢者医療など福祉予算の廃止、ハツ場ダムやスーパー堤防など大型事業の中止と医療・福祉の充実を訴えています。

いのち、安全を守る県政に

 現知事は「日本一職員が少ない」と胸をはるが、「行政が本来行うべき仕事を民間に委託して起こったのがふじみ野市のプール事故。命、安全に関わる分野は民間委託しない」と女性候補はきっぱり。

 公約の一番は医師・看護師不足の解消です。埼玉県は全国一医師と看護師の少ない県と指摘。医学生への奨学金や埼玉大学に医学部新設を公約。小児救急や中学卒業まで医療費無料化も。

平和と憲法守る知事に

 演説の最後に触れるのはライフワークの女性問題。参議員時代、他党と共同で『従軍慰安婦問題解決促進法』を国会に提出しました。「現知事は従軍慰安婦はいないと暴言を吐いた。歴史を歪める新しい歴史教科書をつくる会の元副会長・高橋史朗氏を教育委員にすえた。侵略戦争を反省しない知事は県民の代表としてふさわしいでしょうか」と問いかけます。女性知事で人権を守り人に優しい県政を。
ヤンバダム
 群馬県吾妻渓谷に建設中の八ツ場(やんば)ダム。総事業費4600億円の日本最大のダム。首都圏の利水と利根川の治水が目的。ところが首都圏は水余り。洪水対策にも「大きな効果は見込めない」と国交省が認め無駄な大型公共事業の典型に。見直すと公約して当選した上田知事は「大型公共事業の再検討懇話会」を設置。ニケ月審議し事業費の倍加は止むを得ないと知事に報告。知事は「必要な水源開発の一つ」と無駄遣いを放置し続けています。
原爆写真展ひらかれる
原爆写真展

 新座市原水爆禁止協議会は、市役所一階ロビーで恒例の原爆写真展を8月14日から24日まで開催。子どもたちが折鶴を折ったり市民が感想をノートに記してくれました。

《感想文より》
 今も世界のどこかで戦争がつづいています。二度とおこしてはいけないことなのに。なぜ頭の良い方がゴーサインを出すのでしょうか。原爆の実験がまだどこかで続けられています。世界に平和を!!

乳がん検診者は3割減など 受診者が1000人減る
 06年度は、各種がん検診や基本健康診査が有料化されて二年目です。検診を受診した市民の数は、無料だった04年度に比べると対象者が増えているにもかかわらず、合計で約1000人減っていることが分かりました。

 早期発見・早期治療のためにも有料化は逆行の施策です。

 また、基本健康診査の内容が来年度から変わり、メタボリック症候群予備軍の発見を目的に、身体測定や採血だけの簡単なものになる可能性もあります。現行の検査項目の維持や検診無料化に戻す声を上げていきましょう。
がん検診、基本健康診査・過去3年間の受診者数
1億円を超える増税と福祉サービスカット
市の『第4次新座市行財政改革大綱』にもとずき
 『第4次新座市行財政改革大綱』に基づき、7月から市民プール使用料や各種手数料等の値上げ、市民葬や介護保険利用料助成のカットなどが実施されています。

 高齢者、障がい者へのきめ細かな福祉サービスの切下げが次々におこなわれ、住民税増税で大変な市民をさらに苦しめています。

 福祉、教育を削るなの声をあげていきましょう。
1億円を超える増税と福祉サービスカット
「公共建築物、計画的に直します」来年度は5億円見込む
『第4次新座市行革大綱』で明文化
 日本共産党は、老朽化した学校や保育園、公民館等公共施設の計画的な改修を求めてきました。

 改修を怠るとかえって多額な経費がかかります。

 学校や保育園を訪問し具体的な改修箇所も指摘してきました。

 市がこの程示した『第4次新座市行政改革大綱』では、市の公共建築物139施設の改修事業に毎年一定額の経費を当てることを明らかにしました。

 「市の建築物は昭和40、50年代の人口急増期に建築され、築20年以上の施設が全体の半分以上・・・既存施設の機能を存続していくために計画的な改修、改築を行う」として、「平成20年、21年は各5億円ずつ、平成23年以降は7億円から10億円」を改修費として見込んでいます。
私の戦争体験
すべてを失った大空襲
 今から62年前戦争の時、私は小学2年生でした。父は床屋を営み、生計が成り立っていました。兄二人と母と5人暮しでした。

 昭和45年3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲は忘れられません。

 空襲警報がなり、家族は着の身着のままで真っ暗な道路沿いを護国寺方面の小高いところを目指して逃げました。山の上に辿りついてまちを見下ろすと一面が火の海で家が焼けていました。10日、火の手がおさまった頃家に帰る途中、真っ黒に焼けた死体がいっぱいゴロゴロと転がっていました。家は焼けてなくその後目黒に引越しましたが、そこに弟が住んでいました。

 母は東京が危ないと言って4月で3年生になった私に学童疎開をすすめ、長野の松本へ出されました。その後の話ですけど、上の兄は赤紙で内地に召集。残された父母、弟と次兄は目黒で二度目の空襲にあい、またまたすべてを失い恐ろしい思いをしたそうです。

 生きていたので私は長野で再会することができました。父は幸い床屋さんだったので田舎の人の頭を刈りながら食糧で払ってもらいました。

 今でも戦争の映像は見るのもいやです。思い出すから。戦争は絶対にやってはいけません。

(昭和11年生まれ・北野2丁目・Tさん)
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